dreamin' blog

本来であれば、25日当日に更新しておくべきなのですが、時間がなく本日の更新となりました。

まず冒頭に、事故の犠牲者の方に心よりご冥福をお祈りいたします。

自分の中で阪神大震災と福知山線脱線事故はどうしても、振り返っておきたい大きな事項です。
(3..11 は正直なところ、自分の中で整理されていない部分がありますので、振り返るの難しい)

僕がこの事故に感じていることは、以下の二つ。

この2つは僕にとって強烈であったにも関わらず、とても静かで心が虚無感さらされている感情だった。決して、怒りや大きな苦しみがあったわけではなく、何か大きく生活に支障をきたすものであったわけでもなく、とても不思議な感覚だった。

事故を振り返ろう。
その日は、我々の高校は遠足だった。
その遠足はとても奇妙なものだった。名前は校外学習と称していたかもしれない。
その遠足(もしくは校外学習)には、目的が2つあった。
・生徒同士の親睦を深める
・異国の文化に触れ、教養を深める

ちなみに行き先はUSJで目的の2項目は、無理やり教育的意義を埋め込んだ感が満載だった。僕にとって高校はそういうものだった。受験は手段に過ぎないとしながらも、確実に目的化していたし、文化祭は完全に文化祭であったにも関わらず、発表会という名前を守らなければならなかった。(僕は生徒会で何度も文化祭に名称変更するように求めたが教職員に受け入れられることはなかった)

その2つの目的のために、我々は各々最寄り駅からUSJに向かった。
学校の推奨のルートはJR川西池田駅からJR大阪駅を経由して、ユニバーサルシティ駅に向かうルートだった。
僕はクラスメイトと能勢電鉄を利用し、阪急川西能勢口駅から阪急梅田駅を経由して、ユニバーサルシティ駅を目指した。

阪急宝塚線とJR福知山線は、兵庫県宝塚市から川西市までを並走している。川西市を過ぎてからは、阪急は大阪北摂の池田豊中を経由し、JRは兵庫伊丹、尼崎を経由し大阪梅田へ向かう。

並走区間の宝塚・川西間では両者は激しく乗客争奪合戦を繰り広げていた。
既存顧客で劣るJRは新駅建設や到達時間削減によって、徐々に阪急から顧客を奪っていった。
その歪が事故を引き起こしたのは各種報道の通りなのかもしれないし、ただ運転士に問題があったのかもしれない。そこは僕にはわからないし、いったいそんな議論をして何になるのだろうと思う。

とにかく、学校規定のルートを使い1,2本乗り遅れた場合、あの同志社前行きの電車に乗ることになったのだ。
不運なことに僕の同級生は2両目に乗車し、命を落とした。レールの遙か左のマンションの中に事故から1日目に一人目が2日目に二人目が見つかった。

僕は当日乗りなれた阪急に乗り、学校規定のルートを守らずUSJに向かった。
USJで2つほどアトラクションに乗ったころに、事故があったらしいという情報をそれとなく同級生から聞いた。
最初は人身事故など日常茶飯事なので、気にも止めていなかったが、当時珍しかったテレビ付き携帯電話を持っていた友人に映像を見せてもらった瞬間、自体の重大さを知った。

その後、USJ内でバラバラに行動していた生徒たちは帰宅を命じられた。
僕は友人と一端梅田に向かい、ヨドバシカメラで報道を眺めていた。
梅田駅では号外が配られ、ヨドバシカメラのテレビは一斉に事故報道を映していた。

そして、そこに映っていたのは同じ高校の制服を着た女子生徒達だった。
怪我をしているものが居るらしく、彼女たちはみなこれ以上にない心配な表情をしてテレビに映っていた。
女子高生は画になったのだろう嫌というほど、テレビでリピートされた。
そして、僕の頭の中でも激しく何度もリピートした。

次の日の朝、登校すると一人が事故の犠牲になり、もう一人が行方不明であることが告げられた。
学校にも新聞が到着し、生徒にインタビューを求めた。
下級生がカメラに向かいピースサインをしたという噂を聞いた。誰だか知らないが、学校中が異様な雰囲気に立たされた中、彼がそういった行動をしたかったのはわからなくはない。それでも、目の前にいたら殴り飛ばしていたに間違いない。

教室の空気は張りつめ、誰も口を発することができなかった。
空気が凍るというのは、あのことを呼ぶのだろう。

その日かその翌日に通夜が行われ、生徒たちが参列した。
参列は生徒たちの自由意志に任されたが、ほとんどの生徒が参列した。
そして、事故によって負傷した女生徒も参列していた。

車椅子の女子高生に向けて、何度も何度もフラッシュが炊かれた。
あまりにも酷いフラッシュを僕達男子生徒がカメラの陰になって隠した。

僕はその時、テレビの向こう側を知った。
こうした地道な取材で集められた写真や記事をもとにして、僕はテレビや新聞からニュースを知るのだと。
家に帰ると遺体安置所でテレビの前で怒りを露わにする女性の映像が何度も流れた。
いろいろな現場で取材された後に、こういった映像が使われるのだ。
彼女の怒りは何を訴えているのかわからなかったが、僕の抱いていた感情とは何か少し違いがあるようで、違和感を感じずにいられなかった。とても、大切な彼女の感情が切り取られて、テレビに映されているように感じた。

僕は、とにかく、そっとして欲しかった。
親交が厚くあったわけではない同級生を失った僕は、悲しめばいいのか慰めればいいのか、怒ればいいのかわからなかった。

今思うと、僕はこの一連の出来事で相当な傷を心に負った。

弔辞で、同級生が泣きながら読んだ「どれだけ痛かっただろう、どれだけ苦しかっただろう」という言葉が今でも、頭の中から離れない。
時速100キロで脱線した電車が鉄筋コンクリートのマンションに突っ込み、アルミ製の車両がグニャグニャに曲がった。そして、その中に居た。

悲しく、やるせなく、そんな中どこか人ごとのように思ってしまう申し訳なさ。
あらゆる種類の感情で、17歳の僕や同級生の心は蝕まれてしまったんだろう。

今思うと、そんな中で学校の教師達が普段の生活に早く戻ろうと言ったのは、あまりにも無茶だった気がする。それが二人へのメッセージになるという解釈はもちろんあるが、愛別離苦に対する心の扱い方として、それは正攻法とは呼ばないだろう。

学校生活をカレンダー通りに進めることと、普段通りの生活にも違いがあっただろう。
そして、教師達も教え子を失ったパニックから、地に足を着いていたとは全く思わない。

ただ、実社会と非常時の人間の感情をスケジュールで合わせることは違うのではないだろうか。
そんなことを7年経った今、思うのである。

頑張りすぎなくてもいいぞ、辛いっていっていいぞ、そんな言葉を17歳の自分にかけてあげたい。そして、僕は今を、そして未来を生きる。彼女たちの同級生として。